松本城

 所在地  長野県松本市丸の内
 形式  平城
 主な城主  小笠原秀政・石川康長
 遺構  天守閣・石垣・堀・土塁・二の丸土蔵
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1982年4月4日
 A2015年5月14日
 満足度  A B C D E
 登城難易度  A B C D 

埋橋

別名「烏城(からすじょう)」とも呼ばれる

二の丸東側の外堀

本丸への正面入口である黒門一の門(昭和35年復興)

黒門二の門(平成2年復元)

天守

天守と埋橋(うずみのはし)

松本城

 概説

松本城鎮守若宮八幡宮跡

本丸南側の内堀

  松本城は永正元年(1504)、信濃守護小笠原氏の一族島立貞永によって築かれたと伝えられ、当時は「深志城」と呼ばれていた。天文19年(1550)、甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻し、守護小笠原長時を駆逐。信玄は北信濃への侵攻の拠点として深志城を選び、重臣の馬場信春(信房)を城代に置き、城の改修を行った。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、当時徳川家康の家臣となっていた小笠原長時の子貞慶が深志城を奪還。城を改修し、深志城の名を「松本城」と改めた。天正18年(1590)、貞慶の子秀政は下総古河に移封され、代わりに石川数正が入封。数正とその子康長の時代に現在の天守閣が築かれた。慶長18年(1613)、石川康長が改易となり、再び小笠原秀政が復帰。しかし、その子忠真は元和3年(1617)、播磨明石へ移封となり、以後、城主は戸田、松平、堀田、水野、戸田氏と交代し、明治維新に至った。天守は今なお現存するが、本丸御殿は享保12年(1727)に失火によって焼失し、以後は二の丸御殿で政務が執られた。この二の丸御殿は明治まで存在したが、明治9年(1876)、不審火によって焼失した。

INDEX

太鼓門二の門(平成11年復元)

二の丸への入口である太鼓門一の門(平成11年復元)

二の丸北東隅にある櫓台跡

二の丸御殿跡に現存する土蔵。慶応3年(1867)に新築され、
当時は御金蔵として使用された。

              二の丸御殿跡
〜二の丸御殿は藩の副政庁であったが、本丸御殿焼失後は
正政庁となった〜

本丸北門(裏門)跡

本丸御殿跡

天守手前の広場には本丸御殿があったが、
享保12年(1727)に失火のため焼失した

    天守最上階からの眺望
〜後方に聳える山々は南アルプス〜

天守内部(最上階=6階)

天守

左から月見櫓、辰巳附櫓、大天守、渡櫓、乾小天守

天守内部(2階)

現存天守(国宝)