丸森城(丸山城)
本丸跡




| 所在地 | 宮城県伊具郡丸森町渕ノ上 |
| 形式 | 山城 |
| 主な城主 | 伊達稙宗 |
| 遺構 | 曲輪・空堀・堀切・土橋 |
| 指定・選定 | なし |
| 訪城年月日 | 2025年10月22日 |
| 満足度 | A B C D E |
| 登城難易度 | A B C D E |
| 車での登城 | 可(二の丸跡手前まで) |
二ノ丸跡
二ノ丸の壇
丸森城(現地標識では丸山城)への道標
神社裏の崖下にある巨石(庚申碑)

神社裏の崖下にも曲輪らしき空間がある
神社前から伊達稙宗の墓を望む


愛宕神社社殿

伊達稙宗墓の後方に愛宕神社が建つ
伊達稙宗の説明版
伊達稙宗の墓

本丸西側の土橋


本丸西側の空堀


本丸跡
本丸跡


三ノ丸跡の標柱
~曲輪らしき場所に見えないが、奥の民家がそうなのか?~








丸山城は、天文17年(1548-436年前)天文の乱(伊達稙宗・晴宗父子の争い)に破れた稙宗が隠居したことで有名になった。
稙宗は永禄8年(1565)この城で没するまで17年間、隠居生活を送ったことになる。
稙宗の没後は、この丸山城をはじめ、隠居料としてもらっていた丸森ほか五か村は、稙宗の世話をした長女の嫁ぎ先、相馬氏がそのまま所領
とした。(このことがそれから後、伊達氏と相馬氏との争いの大きな原因となった。)
菩提寺は稙宗が伊達郡におった折に菩提寺としていた松音寺が菩提寺となった。(この松音寺は、政宗の代に仙台に移した。)
元亀元年(1570)相馬氏は、藩士門間大和を丸山城主とした。
天正4年8月、伊達晴宗、輝宗父子は、小斎矢の目に陣を敷き相馬氏を攻撃、天正12年まで8年もの間、丸森、金山、小斎の各地で激しい
戦いが交えられたのである。
その間に晴宗は没し、輝宗の子政宗もこの戦いに出陣している。
戦いは終って伊具郡は元通り伊達氏のものとなり、丸山城は黒木宗元が城主となる。
その後家老高野壱岐親兼が城主となり、さらに慶長6年(1601)大条薩摩守実頼が金津から移封されて城主となる。
その年(一説には3年後)大条薩摩守は鳥屋舘に移り、ここで丸山城は明城となる。
今は本丸跡に愛宕神社が祀られ、境内に伊達稙宗の墓碑が建っている。
<現地案内板より>
丸森城
土橋の先にも曲輪があり、伊達稙宗の墓と愛宕神社がある
二の丸跡手前の駐車スペースに駐車し、あとは徒歩で進む
三ノ丸跡を通り過ぎて道標に従って進む
本丸西側の空堀と土橋
堀切西側にある曲輪跡
二ノ丸西側にある堀切