熊本城
所在地 | 熊本県熊本市中央区本丸 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 加藤清正・細川忠利 |
遺構 | 宇土櫓・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓・ |
源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・ | |
田子櫓・平櫓・監物櫓・不開門・長塀・ | |
石垣・堀・井戸 | |
指定・選定 | 国指定特別史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2012年3月27日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
細川忠興の墓(泰勝寺跡)
泰勝寺跡(立田自然公園)にある細川藤孝の墓
〜熊本市中央区黒髪4−610〜
長局櫓(復元)
〜中は休憩所になっている〜
熊本城は大坂城・名古屋城とともに「日本三名城」の1つに
数えられる
「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(現存、重文)
〜宇土櫓の名称は、宇土城主・小西行長の家臣を加藤清正
が召し抱え、その者たちに管理させたことに由来するとか〜
熊本城
飯田丸五階櫓
熊本城はかつて茶臼山と呼ばれた丘陵上に建っているが、もともとこの茶臼山の東端には、応仁年間(1467〜69)に菊池氏一族の出田
秀信が築いた「千葉城」があった。また、明応5年(1496)には、鹿子木親員(かのこぎちかかず)が茶臼山の西南端に「隈本城」を築いた。
加藤清正は天正16年(1588)に隈本城に入り、これらの城を廃して大規模な城を築城し、慶長12年(1607)、現在の熊本城が完成した。
この時、「隈本」の名も「熊本」に改められた。寛永9年(1632)、清正の子忠広が改易となり、代わって細川忠利が豊前小倉から入封し、明治
維新に至る。明治10年(1877)の西南戦争では、新政府軍の重要拠点となったため西郷隆盛軍に攻められ、持ちこたえたものの、天守や
本丸御殿など主要部分が焼失した。現在の天守は昭和35年に復元され、平成20年には本丸御殿も復元された。
細川ガラシャの墓(泰勝寺跡)
行幸橋のそばに建つ清正公銅像
内堀の役割を果した坪井川
備前堀
未申櫓(ひつじさるやぐら、平成15年復元)
戌亥櫓(いぬいやぐら、平成15年復元)
本丸御殿大広間
竹の丸付近の石垣群
竹の丸付近の石垣群
源之進櫓(現存、重文)
〜細川家臣・河喜多源之進が管理していたことから源之進櫓
と呼ばれる〜
平御櫓(ひらおんやぐら、昭和36年復元)
東十八間櫓(現存、重文)
飯田丸五階櫓(平成17年復元)
〜清正の重臣・飯田覚兵衛が管理していたことから飯田丸と
呼ばれる〜
本丸御殿(平成20年復元)
大天守からの眺望(西方面)
大天守からの眺望(東方面)
大天守と小天守(昭和35年復元)
天守西側に現存する井戸
〜水面までの深さが36mもある。加藤清正は城内に120余
の井戸を掘ったといわれる〜
宇土櫓と武者返しと呼ばれる石垣
本丸の西口「頬当(ほおあて)御門」から入城する
宮本武蔵の供養塔(泰勝寺跡)
〜武蔵は晩年、熊本城主・細川忠利に客分として招かれて
熊本に移り住み、熊本でその生涯を終えた〜
西大手櫓門(昭和56年復元)
天守西側にある縄張図
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