小諸城

 所在地  長野県小諸市丁
 形式  平山城
 主な城主  武田信豊・仙石秀久・牧野康重
 遺構  大手門・三の門・石垣・空堀・井戸
 指定・選定  日本100名城
 訪城年月日  2000年5月6日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

                天守跡
〜仙石秀久が城主の時、三重の天守が建てられたが、寛永
3年(1626)に落雷で焼失した。その後は幕府の許可が得ら
れず、再建されることはなかった〜

天守台

黒門橋

南丸跡

北の丸跡

二の門跡

二の丸石垣

三の門(現存、重文)

  小諸城の起りは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が、現城址の東側に館を築いた。またその後、大井光忠が小室氏の勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女坂城、別名白鶴城
(二の丸跡)を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場美濃守信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で“酔月城”ともいわれている。
  その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平源十郎康国が城主になった。さらにその後豊臣領となり、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平氏など六氏に変り、元禄15年(1702年)、牧野氏になり十代続いた。
  この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。
  明治4年(1871年)の廃藩置県で役割を終え、明治13年(1880年)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。

                                                                     <懐古園パンフレットより>

小諸城

INDEX

二の丸跡

 概説

    懐古神社に横たわる鏡石
〜山本勘助が愛用したと伝えられる〜

本丸跡に鎮座する懐古神社
〜牧野氏歴代藩主を祀る〜

大手門(現存、重文)