清洲城

 所在地  愛知県清須市朝日城屋敷・一場古城
 形式  平城
 主な城主  織田信長・信忠・信雄
 遺構  土塁
 指定・選定  なし
 訪城年月日   @1983年4月
 A2000年11月5日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

模擬天守(東面)

模擬天守(川は五条川、橋は大手橋)

清洲古城跡にある伝天守台(現存土塁)

  室町時代の初め、尾張の守護職であった斯波義重は、清洲に守護所下津城(現稲沢市)の別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代と
してその勢力保持をはかったといわれています。文明8年(1476)守護所下津城が戦乱により焼かれ、清洲に守護所が移って尾張の中心地
となり繁栄の時代を迎えます。斯波氏は当時、室町幕府を支える三管領(斯波、細川、畠山)の家柄で、将軍家に次ぐ有力な守護大名でした。
  この後、弘治元年(1555)には織田信長公が那古野城から入城、桶狭間で今川勢と戦ったとき、この清洲城から出陣をし大勝しています。本能寺の変のあと清洲城主は次男の信雄となり、天正14年(1586)大改築され、内・中・外の三重の堀を構えた大城郭に生まれ変わります。このときの城下の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられています。その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年尾張の都「名古屋」がほぼ完成しました。信長公の偉業を継ぐ2人の天下人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」「天下の名城」などと賞賛を博した清洲城は、6万都市とともにその姿を消しました。これを「清洲越し」といいます。当時の臼引歌は、そのありさまを「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と唄っていますが、まさにその通りでした。
  織田信長・信忠・信雄の親子三代後の清洲城主は、豊臣秀次(関白)・福島正則(秀吉腹心の大名)・松平忠吉(家康の四男)・徳川義直(家康の九男)の四代です。当時、時の為政者が天下を統一、掌握するに当たって、清洲をいかに重要視していたかがうかがえます。なお、名古屋城築城に際し、清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に名古屋城御深井丸の西北櫓は、清洲城天主の古材でつくられました。この西北櫓は「清洲櫓」とも呼ばれ、今も堀に美しい姿を写しております。

                                                                     <清洲城パンフレットより>

清洲城

INDEX

模擬天守裏側(東側)の広場に建つ濃姫の銅像

清洲古城跡の南側・清洲公園に建つ信長の銅像

平成元年に建設された模擬天守

   五条川対岸にある清洲古城跡
〜実際の清洲城はこの場所にあった〜

 概説

             模擬天守内部
〜桶狭間への出陣に際し、「敦盛」を舞う信長と鼓を打つ
濃姫たち〜