唐沢山城

 所在地  栃木県佐野市富士町・栃本町
 形式  山城
 主な城主  佐野盛綱・昌綱・宗綱・房綱
 遺構  曲輪・石垣・堀切・土塁・井戸
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2015年10月24日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(大手虎口手前まで)

物見場所であったと思われる「天狗岩」から見た眺望

   東端の曲輪である 「北城」
〜キャンプ用の広場になっている〜

本丸東側の石垣

本丸東側の石垣

   本丸下にある車井戸
〜深さは25m余あるらしい〜

南城の石垣

南城の石垣

        本丸跡に鎮座する唐沢山神社
〜明治16年創建。唐沢山城を築いた藤原秀郷を祀る〜

二の丸北虎口

            二の丸跡
〜奥御殿直番(じきばん)の詰所があったとされる。
現在は神社の神楽殿が建っている〜

               表御殿跡
〜この場所に表御殿(政庁)があったとされるが、スペース的
に無理があり考えにくい〜

               三の丸跡
〜城内最大の曲輪で、賓客の応接間などがあったとされる〜

本丸南側の高石垣

大手虎口を過ぎた所にある大井戸 「大炊の井」

大手道(唐沢山神社参道)

  唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいい、往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰冨士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。
  当社御祭神  秀郷公により1千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東七名城の1つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。
  江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
                                                                <現地案内板(唐沢山神社)より>

唐沢山城

INDEX

               杉曲輪
〜ここには「唐沢青年の家」が建っていたが、現在は取り壊
されて更地になっている〜

             金の丸跡
〜宝蔵のあった場所とされる。「金の丸ロッヂ」なる建物
が建っているが廃屋となっている〜

      長門丸跡(お花畑跡)
〜ここでは城内で使う薬草を栽培していた〜

本丸の南側にある曲輪 「南城(なんじょう)」 跡
  〜蔵屋敷や武者詰めがあったとされる〜

本丸南側一段下にある南局(みなみつぼね)跡
    〜奥女中の詰所があったとされる〜

二の丸南虎口の石垣

本丸南側の高石垣

大手虎口は枡形喰違虎口となっている

大手虎口を入った所(武者詰)にある案内板

 概説

「三つ目堀」と呼ばれる竪堀

杉曲輪と北城との間にある堀切

本丸北側の武者詰

本丸大手虎口

三の丸西側にある堀切 「四つ目堀」

     山腹の大手虎口
〜ここまでは車で上がって来れる〜