金沢城

 所在地  石川県金沢市丸の内
 形式  平山城
 主な城主  佐久間盛政・前田利家
 遺構  石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫・石垣・堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1982年4月2日
 A2014年4月3日
 B2014年4月4日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

本丸北側の石垣群

本丸付段と二の丸の間の空堀(橋は極楽橋)

本丸付段(本丸より一段低い段)に建つ三十間長屋
(現存、重文)

      本丸北西隅にある戌亥(いぬい)櫓跡
〜ここに二重の櫓が建っていたが、宝暦の大火(1759)で
焼失し、以後再建はされなかった〜

               本丸跡
〜当初、本丸には天守が建てられたが、慶長7年(1602)
落雷によって焼失。代わりに三階櫓が建てられたが、寛永
の大火(1631)で再び焼失。以後金沢城の中心は二の丸
に移った〜

       本丸南東隅にある辰巳櫓跡
〜ここに長屋を備えた櫓が建っていたが、宝暦の大火
(1759)で焼失し、以後再建されなかった〜

本丸北側石垣(鶴丸倉庫前)

本丸北東隅にある丑寅(うしとら)櫓下の石垣
〜野面積みで金沢城内最古の石垣である〜

手前から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓
(いずれも平成13年復元)

      河北門(かほくもん、平成22年復元)
〜金沢城の実質的な正門であり、石川門、橋爪門とともに
金沢城の「三御門」と呼ばれた〜

石川門の二の門

           石川門(現存、重文)
〜金沢城の搦手門であり、石川郡の方を向いていたため
石川門と呼ばれる〜

金沢城公園案内板

  天文15年(1546)金沢御堂がこの地に置かれ、加賀の一向一揆を指導したが、天正8年(1580)に佐久間盛政が加賀北部を支配し、金沢城の造営をはじめました。
  その後、天正11年(1583)前田利家が金沢城主となり、本格的な近世城郭へと姿を整えていきました。天正14年頃の天守創建、文禄元年(1592)の高石垣建設、元和7年(1621)の本丸拡張などを経て、寛永の大火後(1631年以後)現在の金沢城に近い姿になりました。
  左の絵図は江戸初期の姿を描くもので、二の丸が狭く、三の丸や新丸などに家臣の屋敷があるなど、寛永大火後の絵図と異なるところが多く見られます。
  現在天守はありませんが、慶長7年(1602)に落雷によって焼失するまで、本丸に聳えていました。焼失後、天守の代わりに三階櫓が建てられ、宝暦9年(1759)の火災まで城のシンボルとなっていました。二の丸には寛永の大火後、二の丸御殿が造られ、藩主の御殿、藩庁として藩政の中心にありました。三の丸には河北門・石川門・時鐘・鉄砲所、新丸には作事所・越後屋敷・会所・割場などの施設がありました。
  明治4年(1871)廃藩置県で明治政府の所轄となって旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1949)からは金沢大学のキャンパスになりました。その後、大学の移転により、平成8年(1996)から石川県が金沢城公園として整備を実施しています。
                                                                     
    <現地案内板より>

金沢城

INDEX

5代藩主前田綱紀が造営した庭園 「兼六園」

金沢地方裁判所横に建つ前田利家像

             二の丸跡
〜この場所には二の丸御殿が建てられ、藩主が居住し、
政務を行った〜

本丸付段から見た二の丸広場

二の丸広場から見た菱櫓

本丸の東側にある東の丸跡

鶴丸倉庫(武具土蔵、現存、重文)

            丑寅(うしとら)櫓跡
〜宝暦の大火(1759)で焼失し、以後再建はされなかった〜

 概説

本丸北側にある空堀

本丸付段から本丸に至る鉄門(くろがねもん)跡