鏡山城

 概説
 所在地  広島県東広島市鏡山(鏡山公園)
 形式  山城
 主な城主  蔵田房信
 遺構  曲輪・石垣・土塁・堀切・竪堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日  2019年10月16日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

1郭直下の石垣(または節理)

1郭からの眺望

1郭からは眺望が望める

                1郭
〜城内最高所にあたる。ここもブルーシートだらけで残念〜

2郭井戸跡

2郭説明板

           2郭(通称:中のダバ)
〜城内最大の郭である。平成30年7月豪雨の被害により、
城内あちこちに土砂崩れ防止のブルーシートが張られ、
景観が損なわれてしまっている〜

4郭説明板

5郭(通称:下のダバ)

縄張図(現地案内板)

城跡は鏡山公園内の鏡山の頂上にある

東出丸跡

いにょう

鏡山城

INDEX

  鏡山城は鏡城とも呼ばれ、山口の守護大名大内氏の安芸国支配の拠点として築かれました。古文書等に初めてその名が見えるのは寛正6
(1465)年頃と考えられる小早川煕平宛細川勝元感状写(小早川家証文)ですが築城の時期は、出土遺物などから南北朝時代の後半から
室町時代にかけてと考えられています。
  鏡山城のある西条盆地は、室町時代には東西条と呼ばれ、南北朝時代の1360年代以降、大内氏の領地となっていました。東西条の範囲
は大内氏の勢力伸長とともに拡大し、志和、高屋、造賀を除く賀茂郡域のほぼすべてと、旧豊田郡の安芸津や安芸郡の熊野にまで及ぶ広い
範囲でした。
  大内氏は守護代に相当する代官を鏡山城に置き、「東西条代官」または「東西条郡代」と呼びました。鏡山城は瀬戸内西部に勢力を持つ
大内氏と瀬戸内東部地域に勢力を持つ細川管領家との境目に位置したことから、数多くの戦乱に巻き込まれました。中でも応仁・文明の乱
(1467〜1477)での鏡山城をめぐる戦いや、大永3(1523)年の出雲尼子経久の鏡山城攻めなどがよく知られています。特に大永3年の
戦いは、多くの安芸国人を味方につけた尼子経久が鏡山城を攻め落とし、一躍大内氏に対抗できる勢力として、その存在感を大いに高めた
戦いです。
  反撃に出た大内氏は、大永5(1525)年頃には、東西条を奪還しますが、その拠点は、より峻嶮な盆地西方の杣城(曽場ヶ城跡)に移され、
鏡山城は廃城となりました。
  鏡山城跡の10mを越えてそそり立つ城壁(切岸)や山腹を囲繞する畝状竪堀群は見るものを圧倒します。随所に城を守るための工夫が
凝らされ、戦国時代初頭の大内氏の築城技術の高さを示しています。平成10年1月14日、室町時代から戦国時代にかけての守護大名の
地域支配の拠点城郭の好例として、国史跡に指定されました。
                                                                            <現地案内板>

2郭にある城跡説明板(拡大可)

1郭(通称:御殿場)

2郭井戸跡

説明板によると、馬のダバとは、3郭が城の南側(干支でいう
馬)に位置する段場であるからとの事

3郭(通称:馬のダバ)

大手門跡(4郭)

           5郭井戸内
〜写真ではわかりにくいが石組みがされている〜

5郭には井戸が残っている

東出丸跡近くにある竪堀

登山道の途中で案内板がある

登山道Aルートから登る。頂上まで600mとある。

そま

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