じゅらくだい(てい)

聚楽第

 所在地  京都府京都市上京区新白水丸町周辺
 形式  平城
 主な城主  豊臣秀吉・秀次
 遺構  なし
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2014年1月12日
 満足度  A B C D 
 登城難易度  A B C D 

  かつてこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」と呼ばれていた。その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に、豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。
  秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正14年(1586)に、聚楽第の築城を開始し、翌15年に正室の北政所(おね)母の大政所とともに大坂城から移り住み、政務を執るようになった。その後、秀吉と甥で後継者である秀次の2代にわたる関白の城として使われ、豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。
  この城は幅20mから43m、深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく2つに分かれ、内郭はさらに本丸、南二之丸、北之丸、西之丸に分かれる。
  これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠、南二之丸の南側と西側の濠、さらに北之丸の外濠と石垣などが明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されている。天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命により文禄4年(1595)に破却され、わずか9年の短い歴史を閉じている。

                                                                          <現地案内板より>

聚楽第

INDEX

石碑と説明版

正親小学校前に建つ「聚楽第址」の石碑と説明板(左側)
     〜この場所は本丸の西濠跡とされる〜

 概説

        上杉景勝屋敷跡(上京区弾正町)
〜秀吉は諸大名を聚楽第の周辺に集住させた。弾正町という
町名は景勝の官位「弾正少弼」に由来する〜

ハローワーク京都西陣の北側にも聚楽第址の石碑がある
      〜この場所は本丸の東濠跡とされる〜