岩殿城

 所在地  山梨県大月市賑岡町岩殿
 形式  山城
 主な城主  小山田信有・信茂
 遺構  曲輪・空堀・井戸
 指定・選定  県指定史跡
 訪城年月日  2000年3月19日
 満足度  A B C D E
 登城難易度  A B C D E
 車での登城  不可

空湟(からぼり)

本丸跡

倉屋敷跡

南物見台にある案内板

馬場跡

兵舎跡

岩殿城跡案内図(大月市観光協会資料)

  甲斐の国の東部である郡内地方を領有する小山田氏は、桓武平氏の流れをくむ関東八平氏の一族で、武田氏と数回の婚姻関係を結ぶなど武田氏の友国として終始、甲斐の国の発展に尽した。武田三代のころ小山田氏は武田軍の有力な軍事力として連戦を共にし、常に戦の旗頭として活躍した。
  小山田氏の主城、岩殿山は周囲が嶮崚な岸壁状となりさらに外堀として深い断崖を囲いめぐらす桂川、葛野川を構え、現在も要害の名をそのままに残している。武田氏は、西の高遠・東の岩殿を戦国時代、甲斐の国東方に於ける防衛拠点として、相模・武蔵・駿河・秩父への備えとなした。
  岩殿城は、駿河の久能、上野の吾妻とともに関東三名城に呼ばれ、現在も城跡周辺には「堀・城戸狩・根小屋馬場・陣出・的場」などの地名や城館式の寺院の遺跡があり、名城のなごりを留めている。
  武田氏最終の期に及び、この岩殿城にたてこもり織田徳川の連合軍との決戦を計画したが武田勝頼の軍団は、もはや戦闘能力を失い、ついに笹子峠の西麓、大和村田野の地において勝頼は自刃し、名門武田氏は滅亡した。
  時に天正10年(1582)3月11日である。続いて城主小山田氏も同年3月24日、一族は滅亡し、この城も廃城となった。

                                                                  <大月市観光協会資料より>

岩殿城

INDEX

烽火台(のろしだい)

二の丸跡・三の丸跡

番所跡

揚城戸跡

 概説

    鏡岩と呼ばれる大岩盤
〜城跡はこの大岩盤の上にある〜

用水池(右が飲料水用、左が馬洗池)

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