伊勢亀山城

 所在地  三重県亀山市本丸町
 形式  平山城
 主な城主  関盛信・岡本宗憲・本多俊次・石川総慶
 遺構  多聞櫓・石垣・堀・土塁・井戸
 指定・選定  多聞櫓が県指定史跡
 訪城年月日  2018年3月28日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

             本丸跡に建つ亀山神社
~石川総慶(ふさよし)が城主になった時、城内に小祠を設けて奉斎
したことが起源とされる。石川氏の祖・源義家らが祀られている~

            本丸三重櫓跡
~本多俊次が城主の時、天守の代用として建てられた~

               本丸跡
~上洛する将軍の宿所として使用された本丸御殿のほか、
三重櫓、多聞櫓、西多聞櫓が建っていた~

本丸楠門跡にある案内板に描かれた縄張図

  伊勢亀山城は、文永2年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。
  天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については、『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
  また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かではない。
  寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700メートル、南北500メートルに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。
  亀山城の別名については唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城」と記されている。
  城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる。
  明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。

                                                                            <現地案内板より>

本丸北側の水堀

伊勢亀山城

INDEX

西出丸北側の空堀

本丸北側の水堀

本丸北側の斜面。斜面の下には水堀がある。

         西出丸関見櫓跡
~標柱は崖下にあるが、櫓は崖上に建っていた~

             西出丸跡
~西出丸は現在駐車場やテニスコートになっている~

              大手門跡
~大手門櫓と大手脇櫓から構成される枡形門があり、
ここから先が東三之丸である~

東三之丸跡

           太鼓門跡
~東三之丸から二之丸に入る枡形門があった~

二之丸太鼓櫓跡

二之丸北埋門

二之丸北埋門

二之丸北帯曲輪に復元された模擬塀

                 二之丸跡
~二之丸向屋敷があった場所で、現在は亀山市役所となっている~

               二之丸跡
~二之丸居屋敷(御殿)があった場所で、城主の居館及び
亀山藩庁であった。現在は亀山西小学校となっている~

城址碑

本丸石垣

本丸石垣

         本丸楠門跡
~二之丸から本丸に入る枡形門があった~

本丸井戸跡

本丸多聞櫓

 概説

本丸多聞櫓

        本丸多聞櫓(現存、県指定史跡)
~本多俊次が城主の時に天守跡に建てられた。以前は板壁
であったが、平成24年の工事で漆喰壁に様変わりした~