飯盛山城

 所在地  大阪府大東市・四條畷市
 形式  山城
 主な城主  木沢長政・三好長慶
 遺構  曲輪・石垣・土塁・堀切・竪堀・土橋
 指定・選定  続日本100名城
 訪城年月日  2017年5月3日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  可(ほぼ山頂の楠公寺まで)

本丸高櫓郭下に残る石垣

       二ノ丸史蹟碑郭にある簡易説明板
〜戦国時代、三好長慶らが拠城としたことが記されている〜

二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある石垣

本丸三本松郭と二ノ丸御体塚郭の間にある石垣

本丸展望台郭北側虎口

展望台から見た本丸高櫓郭

本丸高櫓郭に建つ案内板

  飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。
  飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。
  その後、交野の土豪であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン)
  長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。
  しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。
                                                                         <現地案内板より>

飯盛山城

INDEX

南郭

            本丸千畳敷郭
〜「千畳敷」というだけあって城内で最も広い郭である〜

        本丸千畳敷郭
〜NHKとFM大阪の電波塔が建っている〜

本丸高櫓郭南側の土橋

本丸高櫓郭南側の堀切

本丸高櫓郭下に残る石垣

本丸展望台郭下に残る石垣

本丸展望台郭下に残る石垣

二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある竪堀

二ノ丸史蹟碑郭

二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある堀切

二ノ丸御体塚郭

二ノ丸御体塚郭に至る階段(階段上が二ノ丸御体塚郭)

本丸三本松郭

本丸三本松郭と二ノ丸御体塚郭の間にある石垣

本丸倉屋敷郭

           本丸展望台郭
〜本丸高櫓郭より一段下の展望台のある郭である〜

        馬場跡に建つ楠公寺(なんこうじ)
〜ここまで車で上がって来ることができるが、車道は車1台分
の幅しかない〜

 概説

二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある土橋

    展望台から見た眺望
〜広大な大阪平野が一望できる〜

                                   本丸高櫓郭
〜飯盛山の最高所で、この場所に高櫓が建っていたと考えられている。石碑・説明板のほかに楠木正行(まさつら)の像が建つ。
楠木正行は楠木正成の子で、南北朝時代の1348年、四條畷の戦いで北朝方の高師直と戦って敗死した〜

楠公寺の横を通り過ぎて坂を少し登ると、道が3方向に分か
れるので、中央のこの階段を登ると本丸に至る。