一宇治城(伊集院城)

 概説

   駐車場南側の「運動広場」に建つザビエルの石像
〜天文18年(1549)、ザビエルはこの一宇治城で島津貴久
に謁見し、キリスト教布教の許可を得た〜

駐車場にある城址碑と登城口

 所在地  鹿児島県日置市伊集院町大田(城山公園)
 形式  山城
 主な城主  伊集院氏・島津氏
 遺構  曲輪・土塁・空堀・井戸
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日  2014年7月22日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(中腹の駐車場まで)

JR伊集院駅前に建つ島津義弘の騎馬像

神明城の東側「憩いの広場」からの眺望

神明城切岸、左は伊作城との間の空堀

島津貴久・ザビエル会見の地(神明城跡)

神明城跡

        最高所にある神明城(本丸)跡
〜この場所に神明神社があったため神明城と呼ばれる〜

       蔵跡
〜食料や武器蔵があった〜

中平城と蔵跡の間にある井戸

南之城の切岸

南之城跡

釣瓶(つるべ)城跡

中平城の切岸

        中平(なかひら)城跡
〜一宇治城では曲輪のことを城と呼んでいる〜

駐車場(登城口)にある城山公園案内図

一宇治城は戦国時代の山城で、山の名は鉄丸山といい一番高い所は、144メートルである。今から約900年前建久年間郡司として着任した紀四郎時清が城を築いて、4代130年程居住した。これを「古伊集院家」という。
その後島津家の一族久兼が城主となり新しい伊集院家となった。やがて文永・弘安の2回にわたり、元の大軍10万が博多湾に来攻、久親・忠親の父子が参加して防戦し、神風の力も得て撃退することが出来た。
この神恩に報いて「神明神社」を建てた。
伊集院氏は4代「長門守忠国」の頃勢力も強大となり文教も栄えた。忠国の子2人は僧となり、兄南仲禅師は郡に広済寺を、弟石屋禅師は徳重に妙円寺を建て全国に有名になった。後、南北朝の永い戦乱が始まり、忠国は南朝に味方し、北朝の島津氏と戦った。
この功により従三位を贈られた。
伊集院氏の伊集院支配も幕を閉じ、天文5年(1536)島津貴久が城に入り太守の居住となったが、14年後鹿児島本城へ移り、後は地頭の支配となった。
犬之馬場等もこの間に整った。大手口は、伊集院氏時代は荒瀬の方であったが、島津氏が入ってからは犬之馬場の正面に変更された。
                                                                           <現地案内板より>

一宇治城

INDEX

伊作城跡