一宮城

 所在地  徳島県徳島市一宮町城山
 形式  山城
 主な城主  小笠原(一宮)成助・蜂須賀家政
 遺構  曲輪・石垣・土塁・堀切・空堀・竪堀・井戸
 指定・選定  県指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2012年11月16日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

明神丸跡からの眺望(川は鮎喰川)

一宮城跡遠望

陰滝

貯水池と堤跡

本丸跡(奥の祠は若宮神社)

            本丸石垣
〜石垣は蜂須賀家政時代のものと考えられる〜

               本丸石垣
〜本丸のみ石垣が築かれており、虎口には櫓門があったと
考えられる〜

帯曲輪跡

門跡

曲輪跡(曲輪の名称なし)

登城口にある縄張図

登城口にある地形図

  一宮城は暦応元(1338)年、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳を控える県内最大級の山城跡である。
  一宮氏の山城として整備されたが、天正10(1582)年、長宗我部元親の侵攻を受け、また、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐時には、鮎喰川を挟んだ辰ヶ山に陣を構えたとされる豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となった。同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると徳島城の支城(阿波9城の1つ)として、家臣の益田長行に守城させた。
元和元(1615)年の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15(1638)年廃城となった。
  現在、標高144mの山頂の本丸を取り巻くように、明神丸、才蔵丸、小倉丸、椎ノ丸、水ノ手丸などの曲輪、堀や土塁が遺存し南北朝時代から戦国時代にかけての山城の荒々しさと、それを守っていた当時の武士の剛健な気風をしのばせる。現地点から約600mで本丸跡に至る。また、山麓の寄神社周辺は「御殿居」と呼ばれ、城主の居館跡であるとの伝承が残っている。

                                                                        <登城口案内板より>

一宮城

INDEX

本丸裏手に残る釜床(炊事場)跡

小倉丸跡

若宮神社

本丸虎口を上から

才蔵丸と明神丸を区切る堀切

明神丸跡

才蔵丸跡

才蔵丸虎口

竪堀

倉庫跡

 概説

本丸石垣

本丸石垣

才蔵丸跡

登城口

山麓の登城口にある城址の碑

m