一乗谷館
朝倉館跡周辺地図(一乗谷朝倉氏遺跡資料館前案内板より)
所在地 | 福井県福井市城戸ノ内町 |
形式 | 居館 |
主な城主 | 朝倉孝景(敏景)・孝景・義景 |
遺構 | 石垣・土塁・水堀・空堀・庭園 |
指定・選定 | 国指定特別史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | @2001年5月5日 |
A2012年4月18日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
義景館南隣の高台にある「中の御殿跡」
〜義景の母である光徳院の屋敷があった〜
下城戸に建つ石碑と案内板
主殿跡
〜主に接客施設として使われた場所である〜
常御殿跡
〜朝倉家当主が日常生活を送っていた場所である〜
南門
朝倉義景館詳細図(義景館跡案内板より)
朝倉館跡(朝倉義景館跡)
一乗谷朝倉館
朝倉氏はもと兵庫県養父郡の武士でした。一乗谷初代孝景は、応仁の乱(1467〜77年)で西軍に参加していましたが、文明3年(1471)東軍に寝返り、ここ一乗谷に居城を移したと言われています。主家であった越前守護斯波氏や守護代の家柄の甲斐氏との戦いは2代氏景まで繰り返され、3代貞景が永正3年(1506)の加賀一向一揆を撃退したことにより、越前一国の安定が達成されました。4代孝景は、近江、美濃などの諸国にたびたび出兵し、また京や奈良の公家、僧侶などの文化人が下向してくるのを庇護しました。5代義景は、後の15代将軍足利義昭を一乗谷の安養寺の御所に迎え、また南陽寺の観桜宴等で歓待しますが、義昭を奉じて上洛することはしませんでした。天正元年(1573)織田信長との刀根坂の戦いで敗北し、戦国大名朝倉氏はついに滅亡、一乗谷の町は戦火によって焼土と化したのです。
<一乗谷朝倉氏遺跡パンフレットより>
義景館南側の水堀(手前)と空堀(奥)
湯殿南側の空堀の石垣
朝倉館の西側を流れる一乗谷川
下城戸
〜一乗谷北側の入口である〜
上城戸
〜一乗谷南側の入口である〜
町屋群
朝倉館の西側には侍屋敷群が復元(平成7年復元)されている
義景館遠望
〜館の背後の山(一乗城山)には詰めの城が築かれていた〜
英林塚(初代孝景墓所)
〜孝景の法名である「一乗寺殿英林宗雄居士」
から英林塚と呼ばれる〜
湯殿跡庭園(4代孝景の頃の庭園)
〜国の特別名勝に指定されている〜
義景館庭園
〜国の特別名勝に指定されている〜
隅櫓跡(南側)
北門
水堀と土塁(館の西側)
唐門(西門)
〜朝倉館の象徴的遺構であるが、実際は朝倉時代
の物ではなく、後に建てられた松雲院の寺門である〜
中の御殿の土塁と石垣
諏訪館跡庭園
〜国の特別名勝に指定されている〜
中の御殿の南隣にある「諏訪館跡」
〜義景の妻である小少将の屋敷があった〜
館跡にある朝倉義景の墓