揖斐城

 所在地  岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪(城台山)
 形式  山城
 主な城主  揖斐光親
 遺構  曲輪・土塁・堀切・竪堀・井戸
 指定・選定  町指定史跡
 訪城年月日  2013年4月26日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  可(山腹の一心寺まで)

搦手曲輪

北の丸跡

切り通し

二の丸虎口

二の丸跡

本丸北側にある竪堀跡

本丸虎口(北口)

本丸跡

本丸跡

南の丸から本丸に上がる階段

南の丸跡

本丸北側の曲輪にある縄張図

  揖斐城は、南北朝時代の1343年に、美濃・尾張・伊勢三国の守護を努めていた土岐頼康の弟、頼雄によって築かれたとされる典型的な中世の山城です。土岐頼雄は築城後、揖斐姓を名乗りました。その墓所は大興寺にあります。
  標高223m、現在地からの比高約180mにある城台山の山頂の尾根を中心に、現在も各種の遺構が比較的良好な状態で残っています。一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪をはじめ、太鼓曲輪や複数の空堀(竪堀、堀切)、さらには今も水をたたえる井戸などを見ることができ往時の雄姿をわずかに忍ぶことができます。
  中世の山城は、大阪城や姫路城のような豪華な近世の城とは異なり、主に土と木材を用いて築かれた質素な作りの城であったとされています。戦国時代の1547年に「国盗り物語」でも知られる斎藤道三に攻められて落城するまでの約200年の間、6代の城主によって守られてきました。
  なお、この揖斐城(第一期揖斐城)なきあとは、徐々に低地に移され(堀池氏の第二期揖斐城、西尾氏の第三期揖斐城)、岡田藩揖斐陣屋の時代を経て現在の揖斐川町三輪の街並みが形作られて行きます。

                                                                         <現地案内板より>

揖斐城

INDEX

形状が良好に残る土橋

堀切

出丸跡(太鼓曲輪とも呼ばれる)

独立した感のある出丸跡(丘陵上)

三の丸跡

本丸北側の曲輪にある案内板

現在も水をたたえる井戸

城台山の中腹にある一心寺
〜寺の裏手から登城する〜

 概説

大手門跡