兵庫城

 所在地  兵庫県神戸市兵庫区切戸町
 形式  平城
 主な城主  池田恒興
 遺構  なし
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2015年12月20日
 満足度  A B C D 
 登城難易度  A B C D 

  天正8年(1580)池田信輝と輝政父子が、花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫は、それまでの室町幕府の
権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の手に入り、これを機会に池田氏は花熊城の遺材も加えて兵庫城
を築いた。その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい140メートルの地域で、周囲には幅3.6メートルの堀
があった。
  古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。兵庫に古いものが少ないのもその為
であろう。しかし信長・秀吉による全国統一がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
  兵庫城跡は、江戸時代に入って元和3年(1617)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、明和6年(1769)幕府領となってからは大坂町奉行所
に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
  新政府は慶応4年(1868年同年9月8日明治改元)1月22日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、2月2日に兵庫裁判所と名が変わり、
5月23日にまた「兵庫県」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁である。その後県庁は同年9月18日、今の神戸地方裁判所の場所に新築
移転、さらに明治6年5月現在地に移転した。
  明治7年(1874)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。

                                                                           <現地案内板より>

現在、城跡には石碑と説明板しか残っていない

石碑は新川運河の西岸に建っている

兵庫城

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