ほ う じょ う づ

放生津城

 所在地  富山県射水市中新湊(新湊放生津小学校)
 形式  平城
 主な城主  神保長誠(じんぼうながのぶ)・神保慶宗
 遺構  曲輪(埋没)
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日  2025年5月13日
 満足度  A B C D 
 登城難易度  A B C D 

  放生津城は、放生津潟(現在の富山新港)の西側にあった平城である。
  南北朝時代の軍記物語『太平記』には、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族とともに放生津の城で最期を
遂げたと記している。
  室町時代には、越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏の居城となった。
  明応2年(1493)、室町幕府10代将軍足利義材(義尹・義稙)が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主神保長誠に支え
られて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。
  義材のもとへ、公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れた。かくして、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。
  永正17年(1520)、神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の侵略を受けて自害した。このため、神保氏は拠点を
富山城に移した。安土・桃山時代には、加賀前田氏の武将が入り、江戸時代の初め頃までに廃城となった。江戸時代後期には加賀藩の蔵屋敷
となり、明治時代になって新湊高等小学校(現在の放生津小学校)校舎が建てられた。
  江戸時代の記録によると、城は本丸・二ノ丸からなり、本丸は南北約126メートル、東西約81メートル、二ノ丸は南北約50メートル、東西約
36メートルの大きさだった。現在、城の遺構はすべて地中に埋もれているが、昭和63年、平成元年、平成3年に行なった試掘調査の結果、
南北朝~戦国時代の遺構や青磁・白磁土師器皿・珠洲焼・越前焼・漆器椀・中国銭などが、見つかっている。
  平成15年 市の文化財に指定した。
                                                                         <現地案内板より>

放生津城

INDEX
 概説

          城跡に建つ放生津小学校
~令和7年4月に新湊小学校と統合し「新湊放生津小学校」
となった~

現在、城跡には説明版と石碑しかない