原城

 所在地  長崎県南島原市南有馬町乙
 形式  平山城
 主な城主  有馬貴純・晴信
 遺構  石垣・空堀
 指定・選定  国指定史跡・世界遺産・続日本100名城
 訪城年月日  2024年4月17日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  史跡範囲内には駐車場なし(通行は可)

天草丸跡

原城上空地図(本丸跡に設置された説明版より)

三ノ丸跡

蓮池跡(その向こうは有明海)

二ノ丸出丸跡

本丸北側石垣

              天草丸跡
〜一揆の際には天草各村勢4000人が守備したため、
天草丸と呼ばれた。このほか松山丸とも呼ばれた〜

本丸跡遠望(西側より)

           本丸櫓台(天守台)
〜石垣上には天守に相当する三層の櫓が建っていた。
石垣の隅角部が崩されている〜

本丸北側石垣(池尻口門付近)

池尻口門跡からの眺望(眼下に二の丸跡)

本丸北側石垣

    池尻口門跡(本丸搦手門跡)
〜ここも石垣上部がかなり破壊されている〜

十字架塔(本丸跡)

                本丸跡
〜一揆の際は天草四郎ら指導者層が本陣を置き、4000人
が守備していた。礼拝堂も建てられていたという〜

               本丸跡
〜面積は約8千u あり、天守に相当する三層の櫓などが
建っていた〜

                本丸門跡
〜本丸への第三の(最後の)門。形状は櫓門であったと考え
られている。一揆当時はこの門の内側に天草四郎の居宅が
あったとされる〜

              本丸埋門跡
〜本丸への第二の門。石垣が破壊された跡がよく残る〜

               本丸正門跡
〜門の石垣は上部が破壊されており、かなり低くなっている〜

本丸正門跡

二ノ丸跡から本丸跡を望む

二ノ丸跡説明版(拡大可)

             二ノ丸跡
〜一揆の際は百姓など5700人が守備していた〜

二ノ丸出丸の切岸

三ノ丸跡

               三ノ丸跡
〜島原・天草一揆では百姓など3500人が守備していた〜

               三ノ丸跡
〜面積は約6万u あり、自然地形を活かした土造りの曲輪
であった〜

大手口跡に建つ城址碑

  原城は慶長4〜9年(1599−1604)頃に、キリシタン大名の有馬晴信(1567−1612)によって築かれた城郭とされています。宣教師の
記録によると、有馬氏本城の日野江城が手狭で戦闘に不向きであったため、新たに巨大で堅固な原城が築城されました。
  城は有明海に突き出す丘全体を縄張りとし、本丸はじめ二ノ丸、三ノ丸、鳩山出丸、天草丸などの曲輪があります。本丸は石垣造りで、直線的
な稜線の曲輪となっています。一方、他は自然地形を活かした土造りの曲輪が並立的に配置されるなど、中世城郭の名残りがある構造となって
います。元和2年(1616)、大和五条より入封した松倉重政が居城を島原へ移したため、原城と日野江城は廃城となりました。
  寛永14〜15年(1637−1638)の島原・天草一揆では、度重なる飢饉や領主の弾圧に堪えかね、2万を超える農民が蜂起し、最終的に
廃城となっていた原城に籠城しました。一揆勢のほとんどがキリシタンでした。一揆は約4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、寛永15年
(1638)2月末の幕府軍の総攻撃により鎮圧されました。一揆以降、ポルトガル船の来航禁止、宗門改帳の作成が実施されるなど、海禁(鎖国)
政策やキリシタン禁制および領民の統制が強化されていきました。原城を主戦場としたこの戦いは、幕府の支配政策にも影響を与える大きな
出来事でした。
                                                                           <現地案内板より>

原城

INDEX

          天草四郎の墓碑(本丸跡)
〜西有家町にある民家の石垣の中に埋もれていたものを
この場所に移したもの〜

天草四郎の像(本丸跡)

本丸跡に残る破却石垣

本丸跡説明版(拡大可)

          本丸北側の空堀
〜一揆勢によって掘られたものと考えられている〜

            二ノ丸空堀
〜二ノ丸も三ノ丸と同じく土造りの曲輪であった〜

大手口跡(ここから三ノ丸へ)

大手口説明版(拡大可)

大手口跡

 概説

天草丸から本丸方面を望む

           本丸門石垣
〜石垣の大部分が壊され、基底石のみが残る〜

             本丸正門跡
〜本丸に入るための最初の門。形状は櫓門であったと
考えられている〜

               二ノ丸跡
〜面積が約8万u という城内最大の曲輪で、有馬氏時代
には城主の居館があったといわれる〜