萩城

天守台

 所在地  山口県萩市堀内
 形式  平城
 主な城主  毛利輝元
 遺構  石垣・堀・曲輪・長屋
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2014年10月24日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D  (詰丸は
 車での登城  不可(詰丸)

潮入門跡付近から見た日本海

     二の丸潮入門跡
〜この門は日本海に面している〜

本丸埋門跡(搦手)

詰丸本丸跡にある貯水池

詰丸本丸跡

詰丸棟門跡(本丸虎口)

        本丸跡に建つ福原家書院
〜家老福原家屋敷の書院で、元々は三の丸にあったが、
明治に入り本丸跡に移築された〜

  本丸跡に建つ志都岐山(しずきやま)神社
〜明治11年建立、歴代の萩藩主を祀っている〜

       天守台からの眺め(北方)
〜北方には指月山があり、山頂に詰めの城(詰丸)が
築かれていた〜

明治初期の天守写真(本丸門跡案内板より)

天守台からの眺め(東方)

        天守跡と礎石
〜ここには5層5階の天守が建っていた〜

天守台

本丸御殿跡

本丸南東隅にある着見矢倉跡

本丸門跡と極楽橋

二の丸南門跡に建つ毛利輝元の銅像

萩城

二の丸南門(大手門)跡

  萩城は関ヶ原の役後毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高143メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、13代敬親に至って幕末多端の国事を処理するに不便なため文久3年(1863)4月山口に移った。ついで明治7年(1874)建物のすべてが解体された。本丸には高さ14、5メートルの5層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果した重要拠点でもあった。
                                                                         <現地案内板より>

INDEX

厚狭毛利家萩屋敷長屋に展示されている萩城の模型

厚狭毛利家萩屋敷長屋の内部

         厚狭毛利家萩屋敷長屋
〜厚狭毛利家は毛利元就の五男元秋を祖とする一門で、
毛利本家の家老を務めた〜

二の丸東門跡

詰丸二の丸跡

詰丸枡形虎口

詰丸枡形虎口

本丸北西にある指月山(詰丸)登山口
〜山頂までは約20分の道のりである〜

本丸北東隅にある井上矢倉跡

          東園(本丸庭園)
〜藩主遊息の庭園で大正14年に復元修理された〜

 概説

毛利輝元夫妻の墓

      三の丸にある天樹院毛利輝元墓所
〜もともとこの場所は毛利輝元の隠居所で、輝元の死後、
天樹院という菩提寺が建てられた。明治2年に廃寺となり、
墓所のみが残った〜

    三の丸にある厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋
〜安政3年(1856)に建てられた現存の建物で国の重要
文化財に指定されている〜

三の丸北の総門(平成16年復元)

天守台からの眺め(西方)