伏見城

 所在地  京都府京都市伏見区桃山町古城山
 形式  平山城
 主な城主  豊臣秀吉
 遺構  移築櫓・移築門・石垣・堀
 指定・選定  なし
 訪城年月日   @2002年11月23日
 A2016年8月3日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B C  E

     佐竹義宣上屋敷跡(桃山福島大夫西町)
〜平成19年に行われた発掘調査では、佐竹氏の家紋が
入った瓦が多く出土している〜

小早川秀秋屋敷跡(御香宮門前町)
 〜跡地には御香宮神社が建つ〜

    大天守3階にある黄金の茶室(平成14年撮影)
〜現在、天守は耐震基準を満たしていないとの理由で内部
には入れなくなっている〜

               模擬天守
〜『洛中洛外図』に描かれた徳川期の伏見城を参考に再建
されたが、絵図では連結式の3重小天守は存在しない〜

            参道入口
〜この辺りに大手門があったと推定されている〜

              四の丸跡
〜本丸の南側にある曲輪で、五奉行の一人増田長盛の
屋敷があったとされる〜

  伏見城は豊臣秀吉の隠居城として文禄5年(1596)に伏見指月(しげつ、伏見区桃山町泰長老付近)に築城された。しかし、完成直後に慶長伏見地震に見舞われて倒壊した。次に秀吉は指月の北東にある木幡(こはた)山に城を再築し、慶長2年(1597)に完成させた。翌年、秀吉が城中で没すると、子の秀頼は本拠を大坂城に移し、伏見城には留守居役として徳川家康が入った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、その前哨戦として伏見城は西軍の宇喜多秀家・小早川秀秋らに攻められ、城を守っていた家康の家臣鳥居元忠は戦死、城は焼失した。2年後、家康によって再建されたが、元和9年(1623)、一国一城令によって廃城となった。この時、城の建造物は二条城や淀城など各地の城や寺社に移築された。明治45年(1912)、明治天皇が崩御し、城跡一帯は明治天皇陵(伏見桃山陵)となった。昭和39年、秀吉時代の御花畑山荘跡(城の北西部分)に遊園地 「伏見桃山城キャッスルランド」 が建設され、模擬天守が建てられた。平成15年、遊園地は入園者数減少のため閉園したが、模擬天守はそのまま残っている。

伏見城の遺構と伝わる西本願寺唐門(国宝)

      黒田長政下屋敷跡(深草大亀谷敦賀町)
〜屋敷跡には石碑と案内板が! 平成26年8月、「NPO法人
京都歴史地理同考会」によって建碑された〜

   長宗我部盛親上屋敷跡(桃山井伊掃部東町)
〜京都教育大附属桃山中学のグランドになっている〜

海宝寺には伊達政宗の手植えと伝わる木斛(もっこく)がある

伊達政宗屋敷跡(桃山町正宗)
 〜跡地には海宝寺が建つ〜

島津義弘が住んでいたとされる下屋敷跡
     (島津町、新高瀬川沿い)

         島津家上屋敷跡(桃山町島津)
〜跡地には「桃山島津児童公園」という公園もある。上屋敷
には島津義久や義弘ではなく、なぜか一族ではあるが家臣
の以久(もちひさ)が住んでいたとされる〜

    蜂須賀家政上屋敷跡(桃山毛利長門東町)
〜毛利屋敷の南側にあり、毛利屋敷ともども桃山高校の
敷地となっている〜

毛利輝元上屋敷跡(桃山毛利長門東町)
  〜跡地には府立桃山高校が建つ〜

神社の境内には伏見城の残石がある

御香宮神社の表門(現存、重文)は伏見城の大手門とされ、
元和8年(1622)に徳川頼房によって移築された。頼房は
慶長8年(1603)に伏見城で生まれている。

      前田利家上屋敷跡(桃山町松平筑前)
〜前田利家が松平筑前守と称していたため、屋敷跡には
「松平筑前公園」という公園がある〜

   徳川家康伏見城上屋敷跡(桃山町板倉周防)
〜現在、屋敷跡には乃木神社が建っている。明治天皇に
殉死した乃木大将夫妻が祀られている〜

指月伏見城遠望(宇治川対岸より)

             指月伏見城跡
〜秀吉が最初に築いた指月伏見城の跡は、今はマンション
が建ち並ぶ住宅地となり、全く面影をとどめていない〜

伏見北堀公園に残る北堀跡

模擬大手門脇に建つ伏見桃山城の碑

模擬大手門

御花畑山荘跡(城の北西部分)に建つ模擬天守

  伏見桃山陵の参道に展示されている石垣の石材
〜平成19年、下水道敷設工事中に発見され、三の丸の
石垣と推定されている〜

              名護屋丸跡
〜本丸の東側にある曲輪で、現在は昭憲皇太后(明治天皇
の皇后)陵となっている〜

           木幡山伏見城本丸跡
〜現在は明治天皇陵(伏見桃山陵)となっており、立入りは
できない。陵墓の奥には望楼型の5重天守が建っていた〜

伏見城

INDEX

伏見城

 概説

平成27年6月、マンション建設地から指月伏見城の石垣
が出土し、以来、現地に展示されている

四の丸跡からの眺望