ち ら ん

知覧城

 所在地  鹿児島県南九州市知覧町永里
 形式  山城
 主な城主  佐多氏
 遺構  曲輪・空堀・土塁・井戸
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日   2023年4月12日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

本丸跡

蔵之城〜弓場城(ゆんばじょう)間の空堀道

本丸〜蔵之城(くらんじょう)間の大空堀

本丸井戸跡

駐車場横にある登城口

  鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族
である平忠益が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいました。
  その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して
各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久の弟佐多氏の初代の忠光の軍功を賞して
郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となりました。
  室町時代初め、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊が押領して、島津氏8代目久豊に反抗していましたが、
応永27年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城とよばれました)に入ると、あらためて
知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。
  その後、天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。
10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。
  元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。
  知覧城はシラス台地のへりにできた浸食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、
築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。
                                                                           <現地案内板より>

知覧城

INDEX

今城土塁

今城(いまんじょう)虎口

               今城跡
〜東西60m、南北120mあり、本丸を凌ぐ広さである〜

弓場城跡

弓場城虎口

蔵之城土塁

蔵之城掘立柱建物跡

蔵之城跡

蔵之城虎口

蔵之城虎口

蔵之城登り口

本丸溝跡

本丸池?跡

本丸土塁

          本丸跡
〜東西70m、南北70mの広さがあり、
周囲は土塁が巡らされている〜

本丸跡

本丸土塁

本丸下の空堀道を進む

本丸下の空堀道を進む

本丸下の空堀道を進む

 概説

本丸〜蔵之城間の大空堀

本丸虎口

知覧城縄張図(現地案内板)