武節城
   永正年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、天正18年(1590)最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となった。
  その間約100年にわたって存在した城である。
   信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、
  戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが武田、徳川にとってたいへん気になる存在の城であった。
   いまも城跡は二の丸、三の丸と階段状に下がり、本丸の上にはかつての物見台や狼煙台の跡に八幡神社がある。周囲には十数カ所の曲
  輪の跡があり、500年前の空堀が当時の名残をとどめている。

武節谷合戦
   弘治2年(1556)11月、信州の下条信氏に攻められ激しい合戦の末落城した。城下には姫が身を投げたという「姫井戸」の伝説がある。

武田の大軍が城下を通過
   元亀2年(1571)4月、武田信玄が本格的な三河侵攻を開始、2万5千の大軍を率いて飯田から南下し、杣路峠を越えて城下に迫り、武節
  城は戦わずして武田の軍門に降った。信玄はさらに足助城を落とし、下山から作手へ登り亀山城を落とし、新城に降り野田城を攻め、吉田城
  を脅かして甲州へ帰った。

徳川信康の初陣
   天正元年(1573)3月、徳川家康の長男信康が14才の初陣に武節城を攻めた。そのときの模様は山岡荘八の小説「徳川家康」の中に詳
  しく書かれている。

武田勝頼武節城に泊まる
   天正3年(1575)5月21日、長篠合戦に敗れた武田勝頼は、田峯城主菅沼定忠に伴われて敗走、田峯城に入ろうとしたが家臣の反逆に
  あって果たせず、やむなく段戸山を越えて武節城にたどり着き、一泊して自分の支配地である信州へ逃れた。

                                                                          <現地案内板より>

本丸跡

武節城

INDEX

空堀(本丸の南側、外曲輪付近)

二の丸跡

城山神社から本丸跡を見下ろす

城址碑と陣没者供養碑(本丸跡)

          北側ルート登り口
〜大手道と思われ、本丸跡まで車で行くことができ、
駐車スペースもある〜

武節城

 所在地  愛知県豊田市武節町シロ山
 形式  平山城
 主な城主  菅沼氏
 遺構  曲輪・空堀・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日  2018年5月16日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B C D 
 車での登城  可(本丸跡である城山神社まで)

三の丸跡

二の丸跡

本丸跡

三の丸跡

城山神社

本丸跡にある物見台・狼煙台

          南側ルート登り口
〜本丸南側の外曲輪辺りまで車で行くことができるが、
駐車スペースがない〜

武節城跡は国道153号線城山トンネルの真上一帯にある。
城跡へは153号線の北側から登るルートと南側から登るルートがある。

 概説

物見台には城山神社が建っている