備中松山城

大手門跡と周辺石垣

 所在地  岡山県高梁市内山下
 形式  山城
 主な城主  三村元親・水谷(みずのや)勝俊
 遺構   天守閣・二重櫓・三の平櫓東土塀・石垣・
 曲輪
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2009年10月16日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(中腹の駐車場まで)

 阿井の渡し(高梁市落合町阿部)にある山中鹿之介の墓
〜鹿之介は毛利氏に敗れて捕えられ、備中松山に護送され
る途中、阿井の渡しで殺害された〜

松山城のある臥牛山(がぎゅうざん)
      〜川は高梁川〜

               御根小屋跡
〜山麓には御根小屋と呼ばれる御殿(藩主の住居や政庁)が
あった。現在、御根小屋跡には県立高梁高校が建っている〜

搦手門跡

      天守後方に建つ二重櫓(現存、重文)
〜城内には14棟の櫓があったが、2階建の櫓は二重櫓のみ
であるため、天守に次いで重要な櫓であったと考えられる〜

本丸東御門(復元)

天守内にある囲炉裡

現存天守を持つ山城としては最も高い所にあり、美濃岩村城、
大和高取城とともに日本三大山城の一つに数えられる。

右から天守(現存、重文)、五の平櫓(復元)、六の平櫓(復元)

三の丸跡

大手門・三の丸周辺の石垣群

  この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山の
うちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
  その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と
呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全域が一大要塞となっていたことが、うかがえます。
  当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行
として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど、備中の要衝としての役割を担っていたようです。以降、池田氏、
水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築された
ものと伝えられています。

                                                                  <備中松山城パンフレットより>

備中松山城

INDEX

山麓にある頼久寺に戦国期松山城主の墓がある
  (左から上野頼久、三村家親、三村元親)

二の丸にある雪隠(せっちん=トイレ)跡

二の丸跡

三の丸から二の丸・本丸方向を見上げる

 概説

天守から見た本丸跡

        大手門から三の丸へ続く石段
〜左手の三の平櫓東土塀は現存の塀である(重文)〜