有田城

 概説

      茗荷丸跡からの眺望
〜眼下で有田合戦が繰り広げられた〜

城跡は八重東小学校西方の山頂にある

 所在地  広島県山県郡北広島町有田
 形式  山城
 主な城主  有田氏
 遺構  曲輪・土塁・堀切
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2019年10月16日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  可(山腹駐車場まで)

八重東小学校北側の登山口より登る

有田城

INDEX

  有田城跡山頂には4つの郭(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人工的な土手)が残っている。
  城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏・西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。1515
(永正12)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍した。これに対し、大内氏の命を受けた郡山城(安芸高田市吉田町)の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。
  1516〜1517年に有田城奪回を目指す武田氏と毛利・吉川氏の間で有田合戦が繰り広げられたが、武田元繁は戦死、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にあるが、今田 中井出など異説があり、確定できない。
  この有田合戦は、武田氏の威勢を失墜させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。
                                                                         <現地案内板>

           茗荷(みょうが)丸跡
〜本丸よりもさらに高い位置にあり、狭小であることから、
物見台として使われていたものと思われる〜

茗荷丸跡

本丸跡

本丸跡

本丸跡

二の丸跡

二の丸跡

落城時の焼け米が出た場所(三の丸〜二の丸間)

三の丸跡にある説明板

三の丸跡

            登城口にある案内碑
〜城跡まであと145mとあり徒歩5分程度で三の丸跡に着く〜

               登城口
〜山腹の駐車場まで車で行き、ここからは徒歩で登る〜

有田城概略図(駐車場案内板)

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