会津若松城

 所在地  福島県会津若松市追手町
 形式  平山城
 主な城主  蘆名盛氏・蒲生氏郷・上杉景勝・松平容保
 遺構  本丸御三階(移築)・石垣・堀・土塁・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2018年4月19日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C D 

            本丸高石垣
〜本丸の東堀に面した石垣で、高さは20mを超える〜

北出丸大手門(東門)跡

北出丸

       本丸と二の丸の間に架かる廊下橋
〜蘆名氏時代はここが大手門で、橋に屋根がついていた〜

本丸の東口にあたる枡形虎口

本丸の西口にあたる枡形虎口

本丸(天守下)に残る井戸

鉄門(表門)

           干飯櫓
〜糒(干飯)などの食糧庫として使われた〜

天守最上階より磐梯山を望む

天守最上階より本丸を見下ろす

天守最上階(展望台)

第16代当主・蘆名盛氏の墓

        二の丸跡
〜現在はテニスコートになっている〜

   干飯(ほしい)櫓と南走長屋
〜平成13年に木造で復元された〜

              天守石垣
〜天守の石垣は野面積みで、蒲生氏郷の時代に築かれた
城内で最古の石垣である〜

太鼓門近くにある縄張図

会津若松城

  至徳元年(1384)、蘆名直盛によって会津若松城の前身である黒川城が築かれ、以後代々蘆名氏の居城であった。天正17年(1589)、蘆名氏は伊達政宗によって攻め滅ぼされ、黒川城は政宗の居城となった。その翌年、天下統一を果たした豊臣秀吉によって政宗は陸奥岩出山に移され、
代わって伊勢松阪から蒲生氏郷が42万石(のち加増されて92万石)で入城した。氏郷は7層の天守を建造し、また、黒川城を鶴ヶ城と名付け、町名も黒川から若松に改めた。慶長3年(1598)、氏郷の子秀行の代にお家騒動が起こり、秀行はその廉で宇都宮へ転封となり、続いて越後春日山から上杉景勝が120万石で入封した。しかし、景勝は関ヶ原の戦いで西軍についたため出羽米沢へ移封となり、再び蒲生秀行が宇都宮から60万石で復帰した。寛永4年(1627)、秀行の子忠郷が死に嗣子がなかったため、伊予松山から加藤嘉明が43万石で入封した。寛永20年(1643)、嘉明の子明成の時にお家騒動が起こって改易となり、次に出羽山形から保科正之(徳川家光の異母弟)が23万石で入城した。そして、正之から2代後の正容
(まさかた)が松平姓に改名し、以後明治維新まで松平氏が城主を務めた。明治元年(1868)、新政府軍の攻撃を受けて落城し(会津戦争)、明治7年(1874)に取り壊された。

北出丸西門跡

INDEX

幕末の家老・内藤介右衛門邸跡(追手町6)

蒲生氏郷の墓(興徳寺)

蒲生氏郷墓所(興徳寺)

第18代当主・蘆名盛隆の墓

第17代当主・蘆名盛興の墓

蘆名氏三代の廟所である花見ヶ森廟(花見ケ丘2)

御三階の説明板

         御三階(阿弥陀寺)
〜若松城の遺構として唯一現存する建物である〜

本丸北堀

太鼓門の武者走り

                 太鼓門跡
〜北出丸から本丸に通じる門で、直径5尺8寸(約1.8m)の大太鼓
を備え、藩主の登城やその他の合図などに使用された〜

              本丸月見櫓跡
〜櫓にかかる月が一際美しかったことから月見櫓と呼ばれた。
実際には武器が納められていた〜

            本丸茶壺櫓跡
〜この櫓の下に茶室麟閣があり、櫓内には主に茶器類が
納められていた〜

         裏門跡
〜蒲生氏時代はこちらが表門であった〜

              本丸「御三階」跡
〜この場所に「御三階」と呼ばれる建物が建っていたが、明治初年
に市内の阿弥陀寺に移築され、今なお現存している〜

本丸庭園(藩主居間の庭園)跡

本丸奥御殿跡

本丸大広間跡

               本丸跡
〜広大な本丸には藩主の住む御殿や藩庁などがあった〜

天守(南面)と鉄門

天守(南面)と鉄門

天守(北西より)

天守(西面)

 概説

幕末の家老・西郷頼母邸跡(追手町5)

         甲賀町口門跡(栄町4-49付近)
〜若松城下で16あった郭門中、唯一現存する郭門の石垣である〜

天守(東面)

天守(昭和40年再建)